クレイマー・クレイマー(2)




 翌日は、からりと晴れ渡った美しい日だった。
 高鳴る胸を抱えて幼稚園の授業を終えた朋也は、杏先生に、
「忍足さん・・・・というか、朋くんのパパがお迎えにきてるわよ?」
と告げられ、びっくりした。
 杏先生に手を繋がれ、よちよちと幼稚園の玄関に向かった朋也は、子供達の小さな下駄箱を背に、逆光でいつもよりいっそう長身に見える父が、穏やかな笑顔を見せながら立っているのを発見した。
「とうさま!」
「朋くん、幼稚園終わった?」
 杏先生の手から、朋也は父の力強い腕に手渡された。忍足は我が子を抱き上げた。
「お迎え、きてくれた、の?」
「うん。どうせなら、幼稚園からそのまま行った方が、上野は近いやろ? ・・・・・疲れてる? いったん、おうちに帰りたい?」
「ううん」
 朋也は必死に首を振って、父の首にしがみついた。忍足のうなじに顔を埋めて、
「ぞうさん、ぞうさん!」
と訴えた。忍足は笑った。橘杏も笑った。
「いいね、朋くん。パパと一緒に、象サン見に行くんだねvv」
「ほな、杏ちゃん、これでな。この子、連れてきてくれて、ありがと」
「どういたしまして」
 忍足は息子を揺り上げながら、杏に素早くウィンクした。
「今度、うちに遊びにおいでな、杏ちゃんvv 歓迎するで〜?」
「あーら、いいんですか、忍足さん? 跡部さんがいるのに」
「跡部もあんたに会いたがってるで? なんてったって、天下の跡部景吾を振った女は、今までも、そしてこれからも橘杏ただ一人だろうって、ゆっとるねんで?vv」
「ふふ、光栄ねvv じゃあ、また」
 杏の朗らかな微笑に見送られて、忍足と朋也は幼稚園の門を出て行った。


「電車やで〜、ゴットンゴットンvv」
「でんちゃ、でんちゃ♪」
 JR山手線の車内で、背の高い忍足に抱かれ吊革に小さな指をかけながら、朋也ははしゃいで父の言葉に唱和した。朋也の幼い胸は、冒険心ではち切れんばかりだった。父と二人きりでデートするということ事態、たいへん珍しい出来事だし、それに加えて生まれて初めて象サンを見に行くのだ。
「ぞうさん、よ! ぞうさん、よ!」
「ほんまや、象サンやね〜。象サンに会いに行くんやね〜」
 車内の人々は、漆黒の髪をしたこの長身の青年が、その若さと端正な容貌にもかかわらず、落ち着いて幼い子供をあやしている様子を、ほほえましく見守っていた。
 跡部も子供連れだとしばしば電車内で注目の的になるが、跡部の場合は他の注視をいっさい意に介さない超然とした態度を保つのが常だった。それに比べ、忍足は人当たりが柔らかく、自分達親子が注目されていると知ると、ふっと周囲を見渡し、十八番のタラシの微笑でにっこりと笑ってみせた。
 忍足の微笑につられて、何人かの主婦連は好感を持って笑い返し、不審の目でチラチラ見ていた女子学生やOL等は真っ赤になって心を奪われた。もしこんな情景を跡部が傍で見ていたら、この瞬間、忍足は跡部によって足の爪先をイヤというほど踏みにじられていたことだろう。
 朋也は、父がニコニコしているのを見て、不思議そうに尋ねた。
「とうさま、どったの?」
「う〜ん? いやいや、何でもないねんvv ま、俺もまだまだイケるちゅうことやなvv」
 朋也は首を傾げたが、父がご機嫌なのは嬉しかった。父も自分とのデートを楽しんでいるわけだから、これは誇りに思っていいことだ。
(ぞうさん、はやく会いたい、よ)
 象サンへの燃えるような夢を描いている朋也の肩越しに、忍足は良い気分で上野駅まで女性客に愛想を振りまき続けた。


 上野動物園は、平日の昼間ということもあって、それほど混んではいなかった。
 朋也が地面を歩きたがったので、忍足は朋也を肩から降ろし、手を繋いでゆっくり園内を見て回った。朋也は、大きな父の手にぶらさがるようにして、一生懸命ちょこちょこと歩いた。
「あ、見てみい、朋くんvv 大きなお猿さんやで〜?」
「ぞうさん・・・・」
「あ、あっちには、でっかい狼がおるで!」
「ぞうさん・・・・」
 忍足は幼い息子を見下ろした。その小さな顔に浮かんでいる必死な表情を見た忍足は、可愛くてならないというように朋也の手を握りかえした。
「朋クン、ぞうさんにそんなに早く会いたいん? ぞうさんのいるとこまで、他にもいろんな動物がおるんよ? お楽しみは最後まで取っておいたら、どうや?」
「・・・・・・・」
 素直な朋也は、しかたなく頷いて、父に従い、ゴリラやチンパンジー、狼やライオンや豹、カンガルーやワラビーなどの檻を見て回った。忍足自身も動物園に久しぶりに来たので、思わず我を忘れて動物に見入った。どの動物も、とても興味深かったが、しかし朋也の心はまだ見ぬ象を求めてジリジリと焦っていた。それでも、おとなしい朋也は、じっと我慢した。
「ほら、朋クン。あれ、シロクマや! あんな綺麗な真っ白い毛皮やけど、とっても獰猛やねんで。怖いなあ」
「うん・・・・・」
「あっちには、ペンギンもおるで。皇帝ペンギン、なんや景ちゃんを思い出すなあvv」
「うん・・・・・」
「あ、ペンギンが水に飛び込むで! 見える、朋くん? 抱っこしたろか?」
「うん・・・・・」
 息子を抱き上げようと屈み込んだ忍足は、覗き込んだ朋也の目が涙でキラキラ潤んでいるのを見て、仰天した。
「ひゃあ! どないしたんや、朋クン!? なして泣いてるのん?」
 朋也は何も言わず、屈んだ父の胸にすがりついて泣き出した。小さな朋也には、時間の経つのがひどく遅く感じられ、この園内も広大に思えた。いつまでたっても、どこまで歩いても、ぞうさんのいる場所へは着かない。朋也はくたびれてしまったのである。
 すぐに事情を察した忍足は、後悔で胸がいっぱいになった。すばやく朋也を抱き上げると、涙で濡れたその顔に優しく頬摺りした。
「悪かった、ごめんな朋クン、堪忍や。ぞうさん、早く見たいやもんね。よしよし、今からすぐ行こうな? せやから、もう泣かんで?」
「ぞうさん・・・・」
「そうや、しっかり俺につかまっておるんやで! ちょっと早足するねん」
 息子を抱えると、忍足はその長いコンパスで颯爽と園内を横切っていった。軽やかな身のこなしで、人群れを難なくかわし、風のように歩を進める。すれ違う人々が、驚いたように忍足を振り返った。父の力強い腕の中で、人々の感嘆の眼差しを見やりながら、朋也はいつしか泣きやみ、自分のために象サンめがけて疾走してくれる父の気持ちを嬉しく思った。
(とうさま、だいすき)
 日頃、姉に奪われている(と朋也には思われる)父の愛情が、今はダイレクトに心に伝わってくる。朋也は感動して、涙をぬぐった。
 やがて忍足は、園内の奥まで来ると足を止めた。自分のうなじにしがみついている朋也に、優しく囁く。
「ほら、朋クン、着いたで。ぞうさんや〜vv」
「ぞうさん!」
 朋也は急いで顔を上げ、振り向いた。朋也の視界に、大きな動物の姿が飛び込んできた。バタバタと打ちはたかれるヒラヒラした耳、灰色のずんぐりした巨大な体、そして──そして、何という長いお鼻であることか!?
 朋也は息を呑んで象を見つめた。柵の中には、大きなオトナの象が3匹と、小柄な赤ちゃん象が1匹いた。ゆうゆうと歩き回っていた象は、やがて、燃えるような視線で見つめてくる朋也に気づいたのか、中のオトナの1匹が静かにこちらに近づいてきた。その後を、子供の象が面白そうについてくる。
 象が近づいてきたのを見て、朋也は父の腕の中で身を竦めた。
「とうさま! ぞ、ぞうさん、こっち来る、よ!?」
「そうやね。朋くんに挨拶しに来るんや」
 朋也は、はりさけんばかりに目を見開いて、近づいてくる象を見つめた。近づいてくる、近づいてくる──なんて大きな、大きな、とてつもなく大きな動物だろう! 
 象が、長い鼻先を伸ばして、忍足の腕の中で固まっている朋也の顔をつついた。とたん、朋也は火がついたように泣き叫んだ。
「こわいよ、こわいよ、ぞうさん、こわいよおお!!」



朋くん!(笑)
あんなに会いたがっていた象サンでしたが、そのあんまりの大きさに、
小さな朋くんはビックリしてしまったのでした・・・・・。vv


BACK  NEXT